史跡

古代の海の跡・小仙波貝塚跡【小仙波町三丁目】

しばらく前にウチのPCが壊れてしまい、復旧作業に時間がかかってしまいました・・・。

久々のアップデートです。

小仙波から仙波にかけてはさまざまな時代の遺跡が存在しています。

これが一番古い部類になるでしょうか。

旧市街地の多くはは武蔵野の台地・高台の上にありますが、喜多院のちょっと東方の新河岸川付近から下り坂となり、今では田んぼが広がる低地となっています。

しばらく前に紹介した琵琶橋、この南東100mぐらいのところに信号のある五差路の交差点があり、この信号から川越駅方面に20mほどいったところにちょっとしたスペースがあります。

1 小仙波貝塚跡です。

かつてはここより東方が海であり、縄文時代前期には人々がこの地でヤマトシジミやカキを食し、捨てた跡です。

縄文時代前期には氷河が融け、この辺りまで海が来ており、中期以降は海も再び後退して今の東京湾あたりまで下がったようです。

これで埼玉も海無し県になってしまったのでありますが、昨今地球温暖化によって南極・北極・アルプス・ヒマラヤ等々各地の氷が融けてきているとの話がありますが、再びそのようなことになればまたこのあたりまで海になってしまうということでしょうか。

恐ろしや・・・。

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旅人の安全を祈る道標【小仙波町三丁目】

この前紹介した琵琶橋、大宮から川越へ向かう道にかかる橋ですが、この琵琶橋から道なりに南西方向(喜多院山門方向)に100mほど行くと、五差路があります。

この五差路をそのまま戻れば琵琶橋を経て大宮に、西に向かえば喜多院の山門前、南に向かえば川越駅、そして南東に行く道で今はUNICSの東側を通る道(県道113号川越新座線)になっています。

ここもよく通る道であったのですが、この前通行止めとなった琵琶橋の様子を見に行くために自転車でここを通ったら初めて気がついたものがありました。

喜多院山門前からまっすぐ来るとこの五差路の正面、大宮方面に行く道とUNICS方面に行く道(県道113号川越新座線)との間に、お墓のような石碑が建っていました。

1 正面には、凡字一文字と、その下に「観世音」と彫られていました。

2 二枚目の写真は裏から撮ったもので、逆光のために彫ってある文字がよく読めませんが、この石碑の左右の側面には、それぞれの行きつく先が彫られています。

どちらかと言えばくっきり見えるのは一枚目の写真の右の行先ですが、飯田新田というのが読み取れました。

飯田新田というのは、今はさいたま市になっていますが、荒川の、下流に向かって右岸にあり、県道113号川越新座線をUNICSを越えて更に進んでいくとびん沼川(おそらく旧の荒川の流れで川越市と大宮市の境界になっている川)付近で治水橋方面に向かう道と交差しますが、そのあたりです。

川越の街から歩いて行くと、この石碑のあたりから街を離れていくので、川越を離れる人の安全を祈って観世音を祀るとともにそれぞれの道がどこに向かっているのかを教えてあげるためにこの石碑を建立したのではないかなあと思っています。

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こんなところに塚が・・・【北田島】

以前から気がついてはいたのですが。

我が家から釘無橋方面に抜ける際、裏道として通る道です。

ソーセージとかを製造販売している「ミオカザロ」というお店が市内では有名ですが、そのちょっと南です。

田んぼの真ん中で、前にお惣菜とかを売っていたお店があり、今はそこはやめてしまっていますが、その庭とおぼわしき土地に石碑が立っています。

碑には「舜海入定塚」と彫られていました。

1 裏面に由来等々が書かれていました。

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かつてこの地に舜海というお坊さんがおられ、いろいろ祈願されるために、この地で入定されたそうです。

碑自体は平成15年に建てられたものなので新しいものですが、ご子孫の方が記念として作られたそうです。入定とか聞くと、東北の出羽三山のあたりが有名ですが、このあたりでもあったんですね。

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砂久保陣場跡・稲荷大明神【砂久保】

先般紹介した南部地域公共広場の北側に、神社があります。

砂久保の稲荷大明神です。(一番目の写真参照。)

境内はそこそこ広く、ちょっとした児童公園と、かなり以前に建てられたと思われる社務所兼砂久保集会所もあります。(二番目の写真参照。)

砂久保は、「砂」という地名が付くこと、隣の南部地域公共広場の利用申し込み先が高階出張所であることから、隣接する砂や砂新田のように旧・高階村と思いきや、旧・福原村だったんだそうです。

社殿前の石柱に、福原村開村100周年記念事業、みたいなことが彫られていることから伺えました。

この稲荷大明神、かなり凝ったつくりになっていて、仙波の氷川神社や浅間神社だと本殿と拝殿の間はオープンになっていますが、この砂久保の稲荷大明神は、三番目の写真だと、左手が拝殿、右手が本殿なのですが、その間の通路にも壁と屋根で囲まれています。

一番目の写真左手に水屋があり、石製の水桶には江戸時代の年号が彫られていましたが、この地域の開墾が正保年代(1644年~1647年)ということなので、それ以前はこのあたり一帯は広大な武蔵野の原野であったそうです。

それ以前の今から約460年前の天文15年(1546年)、上杉軍と北条軍が戦った河越夜戦がありましたが、北条綱成が守る河越城を、関東管領で後の上杉謙信の義父となる上杉憲政が攻める際に陣地を置いたのがこの砂久保の地だそうです。

上杉憲政軍は、北条綱成の援軍でやってきた北条氏康の軍に敗れて敗走しています。

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川越と大宮を結んだ電気鉄道の起点、久保町駅の跡【三久保町】

前回、埼玉県初の火力発電所の跡地を紹介しましたが、その火力発電所の電力を使って明治39年に川越と大宮を結ぶ電気鉄道が敷設されました。

川越側で起点となったのは久保町駅で、火力発電所の敷地と隣り合わせの場所です。

その跡地が1番目の写真です。

今は川越市中央公民館になっています。

火力発電所跡地の東京電力川越支社と久保町駅跡の中央公民館の敷地の間に、両者を説明する看板が立っていました。(2番目の写真を参照。)

この看板の図によると、現在の中央公民館の敷地をぐるっと回るように線路が引かれ、真ん中には車庫があったようです。

3番目の写真は、中央公民館の南東の角です。

通行のあまりない道路なのに広く、東向いのお宅は道路の隅切りが必要以上におおくとられていたので、昔からとても気になっていたのですが、丁度ここで一周してまた大宮に戻るように線路が引かれていたからなんですね。

その角から東のほうを見ると、二つ目の横断歩道の奥(浮島神社入り口)に、やや細い道が右カーブして行くのが見えますが、元の軌道の跡でもあります。(4番目の写真参照。)

川越電気鉄道は、そののち現在の西武鉄道に売却されますが、省電川越線(現在のJR川越線/埼京線)の開通、国の制度変更による対応ができなかったこと等で営業を停止、バスの運用に転換されました。

バスも、しばらく前に川越グリーンパークでの乗り換え運行に切り替わってしまい、大宮駅西口までの直通運行は廃止されてしまいました。

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江戸から明治の繁栄・新河岸川河岸場跡【下新河岸・上新河岸・牛子・寺尾】

いつもは東武東上線川越駅を利用しているのですが、一つ池袋よりの新河岸駅で降りました。

新河岸駅のすぐ南側の踏切を東へ向かうと新河岸川にぶつかり、そこには「旭橋」という橋がかかっています。(一番目の写真を参照。)

江戸時代に川越の大火で、小仙波の仙波東照宮が焼失してしまったのですが、このとき東照宮を再建するための資材を江戸から運ぶために新河岸川が使われたのですが、これ以来新河岸川の舟運が盛んになったと言われています。

明治時代になって、新河岸川のより上流に「仙波河岸」が作られるまで、この旭橋を中心に5つの河岸が栄えていました。

五河岸と呼ばれる、上新河岸・下新河岸・牛子河岸・寺尾河岸・扇河岸です。

今でも地名でそのまま残っているのは。上新河岸・下新河岸・扇河岸の3つです。(残りの2つは牛子・寺尾という地名では残っています。)

特に扇河岸は、そのうち紹介しますが、仙波河岸ができてから急速に衰退し、今は住宅街となって、河岸としての面影がなく、地名として河岸があったことを示すくらいです。

最近、旭橋は改修され、また付近の土手も整備し直されています。

旭橋から下流を見ると、右岸には船着場のようなものが設置され、また、この日はたまたまかもしれませんが、左岸に小舟が浮かべられていました。(2番目の写真を参照。)

新河岸川の舟運を復活させるという活動がなされていましたので、観光の目玉として船着き場を整備し、小舟を浮かべたのかもしれません。

また、旭橋西詰の下流側の土手には、この地に河岸場があったことを示す石碑が建てられていました。(3番目の写真を参照。)

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仙芳仙人入定塚【小仙波町一丁目】

仙芳仙人は、その昔海だったこのあたりの土地を龍神から譲り受け、無量寿寺(今の喜多院)を建立しました。

逆に土地を失った龍神のために作ってあげた池が前に紹介した「龍池弁財天」の池です。

また、この「仙芳仙人」の名前から、このあたりの地名は「仙波」となりました。

さて、中院の山門の前の道を北へ向かい、仙波東照宮の門をちょっと越えたところあたりに東へ入る狭い路地がありました。

私も生まれてこのかた川越に住み、この道も何度となく通っていたのですが、この路地に気がついたのは最近なぐらい、ちょっと分りづらい路地です。(一番目の写真を参照。)

この路地を入っていくと、奥に石碑の建った塚が現れます。(二番目の写真を参照。)

この塚が、仙芳仙人が入定したと言われるところです。

入定した、ということなので、お亡くなりになられてから葬られたのではなく、即身仏として自らお入りになったのかもしれません。

元は古墳のようになっていたようですが、今は整地され、石碑の周りだけ高く土が盛られている状況です。

路地入口の案内板によると、ここには、喜多院の「本地堂 瑠璃薬師殿」という建物も昔はあったようです。

分かり辛いので、宮崎産婦人科医院・前田歯科医院を目標にすると医院の北隣りにこの路地があるのが発見できると思います。

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仙波の名の由来??・龍池弁財天【小仙波町四丁目】

1_8 川越駅から、modi(旧・丸井)とアトレ丸広の間の道を東へ向い、三番町の交差点を越え、ひたすら歩くと、左にカーブし、台地から低地におりる緩やかな坂になります。そのカーブの右手に、少し広い空地のようなところが現れます。

気がつかなければ通り過ぎてしまうようなところですが、ここが「龍池弁財天」です。

立て看板によると、その昔、このあたりは海に面した大きな入り江だったそうです。

そのうち紹介しますが、この近くに「小仙波貝塚」があることからもこのあたりが海に面していたということがわかります。

仙芳仙人という人がいて、ここにお寺を立てようと思い、龍神の化身の老人に相談したところ、老人から袈裟を手渡され、袈裟が広がっただけ土地を授けよう、ということになりました。

これでできた土地が喜多院の敷地であるとされています。

ところがあまりに広い土地であったため、龍神の住む場所がなくなってしまったために、小さな池を残しました。

それがこの龍池で、あわせて池や川など水のあるところに祀られるということで弁財天の祠がおかれました。

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2番目の写真の正面が龍池で、池のふちの記録では昭和10年に大改修が行われ、今の形になったようです。

もう少し南に行くと仙波河岸があって、そこには愛宕神社の崖から湧き出る仙波滝というのがありましたが、そこと同様に地下水脈があってここから湧き出ているのでしょう。

左手の上、木の下にあるのが弁財天の祠です。

3_4 3番目の写真は、弁財天の祠を正面から見たところです。

1番目の写真にあるように、近年入り口(2か所)にはここが龍池弁財天であることを示す立派な石柱が建てられましたが、最初に説明したように喜多院に由来する場所ということもあり、喜多院がこの地を管理しているようで、石柱も喜多院が建てたようです。

ただそれ以上のことは現状なされていないので、残念ながらほとんど手入れされておらず、かなり荒れています。

この地を作ったとされる仙芳仙人という名、何か感じませんか??

この地は「仙波」です。

仙芳→→→仙波。

仙芳仙人に由来してこの地を仙波と呼ぶようになったのでしょう。

そのような歴史的に重要な場所ですから、仙波河岸のようにもう少し整備をしてもよいのではないでしょうか。

川越市役所様、一番街の観光に使う予算の一部をこっちにもまわして!!

なお、ここへは歩いても行けますが、やや遠いので、西武バス・川越グリーンパーク行きに乗り、小仙波町四丁目または仙波下のバス停で降りると便利です。(ちょうどこの2つのバス停の間あたりです。)

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万葉の遺跡・占肩の鹿見塚

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川越駅の南方にある新宿町(北)交差点はある意味交通の要所で、道路は川越街道(国道254号)と国道16号が交わり、更にその下で東武東上線とJR川越線(埼京線)が交わっています。

1番目の写真は新宿町交差点にある歩道橋の上から北のほうを写しています。

真ん中を突っ切る線路がJR川越線、右のほうを通っているのが東武東上線です。

川越の市街地は台地の上にあるため、東武東上線は池袋方面からやってくると新河岸駅を過ぎたあたりからゆるやかな上り坂となり、低地部分では土手を設けてその上を走り、新宿町(北)交差点付近(川越街道の烏頭坂の上あたり)で台地部分に入ってくると台地を削った切り通しを抜け、川越駅に至ります。

 2_11この東武東上線の切り通しは大正3年に作られたそうなのですが、その際この地にあった古墳(塚)が壊されてしまいました。

このあたりには前に紹介した父塚(仙波愛宕神社)・母塚(富士浅間神社)をはじめとした古墳群が形成されており、その1つであった”占肩の鹿見塚(うらかたのししみづか)”です。

古代の歌集で万葉集というのがありますが、この巻十四に「武蔵野に占へ肩灼きまでにも告らぬ君が名うらに出にけり」という歌があるそうです。

古代の人は何かあると鹿の肩の骨を焼いて吉凶を占ったそうですが、万葉集の歌はその時の様子を読んだ歌であり、その場所がこの占肩の鹿見塚だと言われています。

このような謂れのある塚ではあったのですが、残念ながら東武東上線の開通のために壊され、また鉄道用地内ということもあって現在ではその場所に立ち入ることもできないため、すぐそばにある前回紹介した母塚・富士浅間神社の境内に遺跡を示す碑が建立されています。

7月13日の富士浅間神社のお祭りである初山、それだけに限らず富士浅間神社にお越しの際には、社殿に向かう階段と富士見町自治会館の間に占肩の鹿見塚の碑がありますので見て下さい。

(ちなみに左隣りにあるやや小さめの碑は、仙波村史が書かれています。)

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開運と安産を祈願する富士浅間神社・母塚【富士見町】

1_5 国道16号と国道254号(川越街道)が交わる新宿町(北)交差点を大宮方向へ2~300m行くと、左手に木の生い茂ったこんもりとした小山が見えます。

6世紀頃の古墳で、前々回に紹介した仙波愛宕神社が祀られている父塚とともに仙波古墳群としては規模も大きいもので、こちらは”母塚”と呼ばれています。

2_6この古墳の上に祀られているのが富士浅間神社です。

江戸時代に流行し、今なお続く富士詣ですが、当時はここから本物の富士山に登ることは 大変だったことからこの古墳を富士山に見立て、お参りしたのでしょう。

境内にある石碑とかを見ると、江戸時代の年号が掘られたものがいくつもあります。

また、川越一帯から参拝に来ていたことも伺えます。

3_3 社殿裏には小さな本殿が祀られていますが、この前には狛犬ではなく、小さな猿が鎮座し、守っています。

ちなみにこの神社の祭神は、”木花咲耶姫(このはなのさくやひめ)”です。

毎年10月に開催される川越祭には様々な御神体を乗せた山車が引き廻されますが、富士浅間神社のある富士見町には山車がないため、木花咲耶姫はお隣の岸町の山車に乗せられてしまいました。

岸町の山車は熊野神社(旧岸村)に保管されているんだけど、そちらの神様はよかったのでしょうか??

将来富士見町で山車を作ることになったらどうするのでしょう??

4_1 神社本殿の裏に行くと、まさに富士山を模した”噴火口”もあります。

あと2週間ちょっとですが、毎年7月13日には“初山”といって、富士山の山開きに相当するお祭りがあります。

この時にはこの噴火口はお賽銭を投げ入れる場所にもなっています。

最初の写真の通り、普段は何もないところですが、初山の日だけは周りに屋台が立ち並び、街中から人がお参りにやってきます。

5_2 元々は、1年以内に結婚した花嫁さんや生まれたばかりの赤ちゃんの初参りで、これから迎える夏の健康のためにあんころ餅や1組2本の団扇を買うという習わしのようです。

ただ、そんなことはあまり気にせず、小学生、場合によっては中学生ぐらいまで、子供がお参りをすると左の写真のようにおでこに赤いお印をつけてくれます。

なお境内では、ここが旧仙波村だったこともあって、木花咲耶姫をとった岸町ではなく、仙波町の囃子連がお囃子を演奏しています。

初山の当日は夕方(昼過ぎ??)から周辺道路が一部交通規制されます。

また、周りは住宅街ですので、路上駐車等は住んでいる方々に迷惑となりますので、ちょっと離れた所のコインパーキング等をご利用下さい。

ちなみに、富士浅間神社のある富士見町は、近くの歩道橋に上ると遠くに富士山が見えるというのもありますが、昔の字名は”富士の腰”と言っており、富士山を模したこの古墳の麓にあったことに由来しそうです。

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