建造物

喜多院門前通り【小仙波町三丁目】

1_2 琵琶橋から西に向かうと、喜多院の山門前に至ります。

この通りを「喜多院門前通り」と言います。

2_2 今でこそ賑わいはありませんが、かつては喜多院の門前であるとともに、大宮等へ向かう川越の出口ということもあり、お店が立ち並んでいました。

3_2 この通りの両側のお宅もだいぶ建て替えられていますが、一部にはかつてお店をやっていたであろうとうかがえる建物や蔵が残っています。

4_2 この中で目を引くというか、まだ活躍されていそうなお店が喜多院斉霊殿の東側にあります。

森甚精麦倉庫のお店です。

精「米」でなく、精「麦」です。

麦を専門に取り扱っておられるお店があるんですね。

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残念、琵琶橋が通行止めに【小仙波町三丁目】【小仙波】

大宮から川越市内に向かう道、今は国道254号の小仙波交差点から新琵琶橋を渡り、東京電力変電所の南側・成田山の北側を経て市内に入っていきます。

もともとはこの道、新琵琶橋のすぐ南側(新河岸川の下流)にある琵琶橋を渡り、喜多院の山門前で北(右)に曲がり、成田山付近で再び西(左)に曲がる道でした。

1 この古い道にかかる琵琶橋が、残念ながら7月から通行止になってしまいました。

琵琶橋を渡って100mほど南西にいったところにある信号をそのまま直進(といってもやや右寄り)すれば喜多院山門前に出ますが、やや左折をする道をいくと、今の川越の中心である川越駅のほうに抜けられる便利な道であったため、結構な交通量がありました。国道254号も、ほんのちょっと前ではありますが、東松山のほうからやってくると、小仙波交差点で、新琵琶橋方向に右折するレーンに加え、琵琶橋方向に右折するレーンも設けられたくらいです。

琵琶橋の通行止に伴い、この右折レーンも閉鎖されてしまいましたが。

2 通行止の原因、橋の老朽化でいつ崩れるかわからないため、ということだそうですが、昭和10

年(1935年)に竣工ということで、以前に紹介した、川越景観百選にもはいている、川でなく切り通しにかかる富士見橋(富士見町・仙波町二丁目・仙波町四丁目)が昭和11年竣工ですから、そのさらに1年前という歴史を持つ橋です。

3_2 もう少し近くに寄って改めて見てみると、

昔の記憶で定かでないですが、3番目の写真の左端に橋の欄干がありますが、この欄干の上にもう少し何かあったような。

他にも、よくよく見れば、確かにぼろぼろになっています。

そういうわけで、古い橋であるにもかかわらず、便利ということで相当の台数の車が毎日通っていましたから。

かくある私も東松山方面から帰ってくるときはこの橋を渡ってましたし。

喜多院には七不思議と言われる昔話があります。

喜多院の尊海僧正という方がお弟子さんを連れて出かけた帰りに道に迷い、小川のそばに出たけども橋がなくて渡れずにいました。

そこへ琵琶法師が現れ、持っていた琵琶を小川にかけて橋としてくれたので、尊海僧正一行は無事に小川を渡れて喜多院に帰れたそうです。

その後にその小川に橋がかけられ、仙波琵琶橋と呼ばれるようになった、ということで、恐らくこの琵琶橋の名前はこの昔話に由来するものでありましょう。

琵琶橋の復旧工事はどうも未定なようでありますが、昔話に由来し、戦前の建造物であり、川越駅方面への行き来にも便利な橋ですので、早々に改修工事をして、また再び以前のように使える橋にしてほしいですね。

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旧・古谷村の中心【古谷上】

国道16号を市内から大宮方面に向かい、古谷の信号をちょっと越えた左手に、川越市役所の古谷出張所があります。(一番目の写真の正面。)

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出張所自体は奥まったところなのでわかりにくいのですが、同じ敷地にJAいるま野古谷支店があり、この建物(一番目の写真右の赤れんが風の建物)が国道16号線に面していますので、それを目標とするとよいでしょう。

今もそうですが、昔もこのあたりの産業の中心は農業ですから、行政と農業者の支援団体である農協とは近しい関係にあったので近接するところにあるのでしょう。

芳野とか福原でも出張所の比較的近くにJAの支店がありますし、仙波町には仙波会館という自治会館のような建物があるのですがここもJAの倉庫とくっついています。

国道16号で、この古谷出張所の敷地入口となるところに小さな石碑が建っていました。

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恐らくこの場所、今は市役所出張所になっているところですから、昔の旧・古谷村の中心である役場の跡地だと思うのですが、その証拠ともいえるもので、旧・古谷村の「道標」、つまり旧・古谷村の起点を示すものです。

これと同様のものが、昔川越と合併した村々の役場の前あたりにあったと思われます。

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というわけで、同じ敷地にJAがありますが、この裏手で、出張所の並びに、石造りで瓦屋根という古い造りの倉庫がありました。

このあたりで収穫された農作物を出荷するまでの間、保存するためにこれが昔から使われていたのでしょう。

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伊佐沼代用水路(古川排水)の橋【菅間】

今日6月2日、関東地方は梅雨に入ったそうです。

梅雨の季節になると川越あたりの田んぼでは田植えが行われます。

川越富士見有料道路と国道16号の間の大仙波あたりでもこの土日にあちこちの田んぼで田植えが行われていました。

川越市北部の山田から芳野にかけても田んぼが広がっています。

特にこのあたりの田んぼは広いこともあって、稲作に必要な水を供給するための水路があちこちに引かれています。

伊佐沼代用水路・古川排水もその一つで、入間川から引き込まれ、入間川と旧赤間川の間付近を流れています。

この伊佐沼代用水路、県道川越栗橋線の釘無橋の東側に行くと、北側に住宅地、南側に田んぼになっていて、北側の家から田んぼにわたるためにいくつもの小さな橋が渡されていました。

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小型の手すりというか鉄の小さな欄干が飾られているもの、何もないもっとシンプルなもの、と様々ですが、基本はコンクリートでできていて、同じような形をしています。

どれそれとっても名の無さそうな橋です。

もしかしたら、この橋を使って田んぼに向かう農家の方はそれぞれの橋に名前をつけているのかもしれませんが。

写真を撮ったのは1~2ヶ月前でほとんど誰も渡っていませんでしたが、今の時期は田植えのためにトラクターがこの橋を行き来していることでしょう。

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変わった形状の下原橋【菅間】

山田・芳野・古谷・南古谷の一帯は稲作が盛んで田んぼがたくさんありますので、稲に必要な水を供給するために水路が張り巡らされています。

前回紹介した菅間緑地の北側にも伊佐沼代用水路(古川排水)という水路が流れています。

この水路にかかる橋がちょっと変わった形をしていたので紹介します。

1972年に建造された下原橋という橋です。

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一番目は水路の上流から下流に向けて橋を見た写真ですが、これだとやや古めの橋ですがごくごく普通の橋ですね。

橋の手前に水を引き込むための簡単な堰があるというのが見られるぐらいです。

2 二番目の写真は、橋の上を撮ったものです。

普通、橋の欄干は左右平行に作られていますけど、この橋は写真右側(水路の下流側)の欄干がそとに湾曲しています。

この道路が写真手前側では川に並行して走っているのですが、この橋のところで右に蛇行しているため、車が曲がりやすいようにということで欄干も曲げられたのでしょう。

このように、川に並行している道路が川を渡るために右左に曲がるケース、例えば大仙波の新河岸川上流水循環センターの正門前とか、多々ありますが、でもごくごく普通に橋の欄干は左右平行して造られています。

普通に造ったほうが規格化できてコストが下げられるとかあるのかと思いますが。

でもこの下原橋のように道路の状況に合わせて作ると利便性は高まってよいですね。

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元の流れにかかる赤間川橋【川越】【北田島】

昨日所要で川越北東部の芳野のほうに行ってきました。

県道川越上尾線を市内から上尾のほうに向かっていくと、JAいるま野芳野支店の前あたりで小さな橋を渡ります。

看板には「赤間川橋」、橋には「旧赤間川」と書いてありました。(一番目の写真参照。)

赤間川は、入間川から入間市にある笹井ダムから取水され、川越に入って新河岸川となる川です。

元々は氷川神社の北側にある田谷橋/田谷堰から北へ向かい、伊佐沼に注いでいましたが、昭和初期に改修され、今のように新河岸川につながる流れとなったそうです。

元の流れは、田谷堰付近では見えなくなっていますが、その先のほうで旧赤間川として残っています。

この赤間川橋の下を流れる旧赤間川、二番目の写真にありますように用水路のような小さな川ですが、流域の水田のための重要な川になっています。

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古谷村と川越市のつなぎ役・二枚橋【古谷上】【小仙波】

先週時間があったので、仙波辺りからさいたま市(旧大宮市)との境目にある古谷のグリーンパークまで歩きました。

約1時間半の道のりで、国道16号の歩道を歩いていきました。

その丁度中間地点あたりに、伊佐沼を起点とする九十川が流れています。

九十川が合流する新河岸川ですが、新河岸川が概ね今のようなルートを流れるようになったのは江戸時代です。(もちろん、かつては曲がりくねった流れだったのを近代になって治水のためにまっすぐな流れに変えたりもしていますが。)

それ以前の新河岸川(赤間川と言ったほうがよいでしょうか。)は、宮元町の田谷堰あたりから北、そして東へと流れ伊佐沼に注ぎ、そこからさらに南に流れていっていました。

なので、その南の流れがこの九十川であり、こちらがもともとは本流ではなかったのではないでしょうか。

その九十川にかかる国道16号の橋を二枚橋と言い、比較的新しくて立派な橋です。

その北側にも小さくて古いのですが橋がかかっています。(一番目の写真参照。)

これがもともとの二枚橋で、二番目の写真で、欄干に彫られているように、大正13年(1924年)8月に竣工された橋です。

古い橋なので劣化が進んでいるようで、欄干には黄色く塗られた鋼材がはめられています。

大正13年ということは、川越町と仙波村が合併して川越市が誕生したのが大正11年ですから、そのわずか2年後です。

下流を向いて右岸が小仙波、左岸が古谷上です。

川越市と古谷村等が合併して今の川越市になったのが昭和30年ですので、竣工したときには右岸の川越市と左岸の古谷村をつなぐ役割であった橋です。

単に川越市と古谷村をつないでいたわけではなく、この橋のすぐ南側が新しい二枚橋で国道16号線が走っていますが、川がまっすぐにされているのと同様に国道16号線も極力まっすぐにされて今のような状態になっており、もともとはこちらの古い二枚橋の上を国道16号が走っていました。(調べたところでは、旧県道大宮線という話も)

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レトロなのこぎり屋根の工場・早市産業【菅原町】

菅原神社前から川越街道を旧市街方向へ50mほどいくと、先般紹介した旧商店と同じような建物があります。(一番目の写真参照。)

とても良く似ていますので、やはり大正から昭和初期にかけての建物ではないでしょうか。

この建物につながるようにグレーの塀があり、この塀に看板が掲げられています。

「早市産業」と書いてあります。

ハンカチやレースを製造する工場です。

この建物の中で作っているわけではないでしょう。

川越街道の東側には、仙波小学校あたりから松江町一丁目付近まで、川越街道のように一直線ではありませんが、川越街道と並行している道があります。

早市産業の敷地も、西側は川越街道に面していますが、東側はその裏道までつながっています。

その裏道に回ると、早市産業の工場があります。(二番目の写真参照。)

現在の工場は四角い箱のような建物が多いですが、早市産業の工場はのこぎりの歯のような屋根をしています。

これだけでも昔風ですが、屋根には瓦が葺かれていることからも歴史を感じさせます。

聞くところによると、戦前に建てられたものだそうです。

菅原町あたりは、偶然かもしれませんが、繊維に関する工場が多かった感じですね。

今の川越第一ホテルかその隣のマンションのあたりには、30年ぐらい前には名称は定かではありませんが靴下の工場がりました。(東京靴下??)

また、川越駅前のマインの東側にある裏口の前に、工場自体は無くなってしまってコインパーキングになっていますが、光美染色という染物工場がありました。

菅原町のあたりは旧市街からは遠からず近からずで、川越街道があり、舟運の河岸も近く、川越駅(鉄道)も近く、ということで繊維産業をはじめとする比較的小規模な産業が発達したのでしょう。

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菅原神社前の旧商店【菅原町】

だいぶ寒くなってきました。

風邪をひいたり、腰が痛くなったりで、ここしばらくパソコンの前に座ることができませんでした。

こうなる前に、休みの時こそ、川越の街を歩き廻って、新たな発見をするのがいいですね。

先般の菅原神社につづいて、菅原町を散策してました。

菅原神社の前は川越街道です。

菅原町付近の川越街道は旧市街の入口でもあり、また仙波河岸からの合流点でもあったので、商店が点在していたようです。

今でも営業を続けているところもありますが、すでに休業してしまったお店もあります。

鉄道(東武東上線)の開通、それに伴う新河岸川の舟運の終焉、そして川越街道も歩きから自動車に代わって素通りするようになり、というところで商店も廃れていったのでしょう。

菅原神社の正面の商店もその一つです。

建物の感じからして、大正から昭和初期ではないでしょうか。

近所では建て替えられてしまったり、またマンションになってしまったところもありますが、営業はしていないものの、手を入れればまだまだ使えそうな感じの建物です。

旧銀座通り商店街が大正ロマン通りとなり、観光スポットそして脚光を浴びるようになりましたが、このあたりももう少しこの手の建物が残っていれば、昭和○○通りとか言って観光客を呼べたかもしれませんね。

今すぐにそうはならなくとも、このまま保存し続けてあと数十年経てば、市の指定による保存建物とかにもなるかもしれませんから、大事にしてほしいです。

私自身は趣味で宅地建物取引主任者の免許を取りましたが、もし不動産屋を開業したなら、市内にこういう建物がいくつかあるので、こういった建物を壊してマンションにするのではなく、こういったレトロな建物を探し出すとともにこういった建物で新たな商売をしてみたいという人のために仲介をする、ということをやってみたいな、とは思いますね。

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僅かに残る武家屋敷跡【三久保町】

前回に続き、三久保町です。

東京電力川越支社と川越市中央公民館の間から西(松江町二丁目方面)に伸びる道があります。

100mほど行った左手に、玉石の石垣と木に囲まれたお宅がありました。(1番目の写真を参照。)

昔風の立て看板があり、説明文が書いてありました。(二番目の写真参照。)

このあたり一帯はかつて武家屋敷だったそうですが、その武家屋敷の特徴としては生垣で枳殻(からたち)を植えていたそうです。

三久保町町内をさらっと巡って見た限り、そのような特徴をもったお宅はここぐらいのようです。

私の遠縁の家もこのお宅のすぐ北側ぐらいにあり、30年ぐらいに行ったきりですが、その時点でにそんな生垣は無くなっていたようなきもします。

このお宅の南側あたりも探索してみたのですが、三番目の写真のお宅のように、裏に蔵があるので古くからのお宅なのでしょうが、やはり既に生垣では無くなっています。

もともとこのあたりは武家屋敷ということで敷地が広いのですが、三番目の写真の右手前あたりを見て頂ければわかるように、このあたりも代変りのようで、あちらこちらで古い建物が壊され、更地になっていたり、駐車場になっていたりしました。

武家屋敷の特徴を残す、数少ない貴重なお宅ですので、可能な限りこれからも保存していってほしいです。

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